第1回 現地見学会

国引きの浜と出雲のナイルをめぐる旅

出雲平野ジオ巡検

 

・西のくにびきの地:斐伊川と出雲平野

 出雲平野は斐伊川・神戸川から運ばれた土砂の堆積によってつくられた三角州平野です。

両河川の規模(流域面積・流長)に比べて、平野が非常に広いという特徴を持ちます。また、非常に短期間で肥沃なデルタを創ったという意味で、斐伊川を出雲のナイル川と呼ぶ人もいるくらいです。

 出雲平野が大きくなった原因は次の3点です。)迷Δ謀膾半島山地が横たわり、日本海の荒波を防いでくれているという立地条件。⊃生誉遒両緡にある三瓶山からの大量の火山噴出物の一部が、神戸川を流れ下って、平野に堆積したこと(縄文時代)。H絨棒郛緡部で盛行した「たたら製鉄」の原料となる砂鉄の採取法である「鉄穴かんな流し」に伴って、大量の土砂が切り崩され、流出したこと(江戸時代)。

 今回の巡検では、出雲三角州平野を巡り、かつての斐伊川の河道変遷「川違え」を訪ね、旧河道や天井川を見学します。また、三瓶山の噴出物の痕跡や「たたら製鉄」の残滓である鉄滓かなくそを観察します。終盤には、奉納山から、稲佐から三瓶山へ続く国引きの綱「薗の長浜」を展望します。ジオ巡検を通じて、斐伊川や神戸川の土砂運搬の力の大きさ、それを制御しようとした人々の営みを感じていただければ幸いです。

 

・実施予定日:

平成25年12月7日(土)9:30〜17:00

 

・巡検コース(案):

松江 島根大学発(9:30)⇒平田(10:20)⇒瑞穂大橋⇒◎三分市(10:30)⇒◎新川 旧河床(11:00)⇒◎出西丘陵上 眺望(11:30)⇒(昼食)

⇒◎井上橋(13:00) 沈み橋(徒歩)◎若狭堤⇒武志(13:30)⇒◎来原岩樋(13:50)と高瀬川・斐伊川放水路(14:10)⇒◎塩冶の低位段丘(14:20)と上塩冶古墳⇒

⇒浜山砂丘・砂州⇒◎高瀬川末端と堀川(15:00)⇒◎稲佐浜・弁天島(15:30)⇒

⇒◎奉納山登頂(16:00)⇒松江帰還(17:00) 解散

               ◎:バスから降車して、徒歩で見学する地点

・費用:

昼食代(¥1000程度) 傷害保険(¥200)

(大学⇔現地の交通費、資料代は大学で負担します)

・募集人数: 

45名以内

出雲平野ジオ巡検 観察スポット ミニ解説

【平田新田】

江戸時代に開発された新田の一つです。斐伊川の河道の付け替え「平田川違い:貞享4年(1687)」によってできた土地です。この時期の斐伊川は西代から北東の中ノ島方向へと流れを替えていました。貞享から享保年間(1716〜1736)にかけて水田化したものです。バスの中から観察します。

【三分市◎】旧河道

 天明5年(1785)に竣工した「三分市川違え」による河道の跡です。この時期の斐伊川は南東の中洲新田方向へと流れを替えていました。以前は土手状の地形が残されていましたが、現在は工業団地となったため、あまりはっきり観察できません。ただ、水田の地割や土地利用からかつての面影を想像することができます。斐伊川の堤防上から観察します。

【新川◎】旧河道・天井川跡

  天保2年(1831)に開削された人為的河川。斐川出西から平野南部を東流して荘原へと約10km続きます。開削直後から河床に砂が堆積し、天井川になっていました。昭和15年(1940)に取水堰が閉鎖され、廃川となった。当初は畑地として利用されていたが、高台であることから、滑走路や住宅など様々な施設の立地場所となっている。求院あたりでは水田面から3m、出雲空港付近でもは1mほど高い位置にある。

【伊波野一里塚】

 一里塚とは江戸幕府の命により主要な街道に1里(約4km)ごとに設けられた標識で、旅人の目印として利用された。伊波野一里塚は旧山陰道をはさんで東と西に相対している。東塚は旧出西村に、西塚は旧伊波野村に属していたために、この名がつけられた。松江から数えて西に7つ目の一里塚にあたる。かつては塚上に松が植えられていたが、現在は根元しか残っていない。国指定の史跡。

【出西丘陵から出雲平野を展望◎】 現在眺望の良い地点を探索中

【井上いあげ橋◎】

斐伊川にある「沈み橋」の一つ。増水していなければ、斐伊川河原に降りて、花崗岩の粗い砂粒や鉄滓を手に取って観察します。そののち、左岸側へと橋を歩いて渡ります。

【若狭堤(若狭土手)◎】

井上橋を西に渡って、若狭堤を観察します。若狭土手は寛永11年(1634)松江藩主京極氏によって建設が始まりました。武志付近で斐伊川の左岸側に堤防を作り、斐伊川を東流固定化させようとしたもので、斐伊川初の連続堤です。出雲平野西部の菱根地域の干拓地に洪水が溢れないようにするともに、宍道湖の埋め立て・干拓を図ったものと考えられます。完成したのは、計画を引き継いだ松平氏の時代で、明暦3年(1657)といわれます。

【来原岩樋と高瀬川◎】・斐伊川放水路  斐伊川河川事務所案内

 高瀬川は出雲平野西部の開発に伴う灌漑用水路として、大梶(林)七兵衛の尽力により、貞享4年(1687)に開削されました。高瀬川の流路は出雲平野の旧河道・自然堤防などの高まりを利用して巧妙に開削されており、産業考古学的にみた土木遺産としても貴重です。

元禄13年(1700)に完成した「来原岩樋」は固い岩盤にトンネルを掘って造られた高瀬川の取水口です。斐伊川左岸の岩山を長さ33mほど掘ってつくられたもので、斐伊川側の部分は、高さ2丈6尺(約8m)、幅8尺5寸(2.5m位)、奥行6間(約11m)の隧道となっています。トンネルの西方は切り通しです。岩樋が完成するまでは、大雨出水でしばしば取水口が破壊されていたが、岩樋完成によって恒久的な取水ができるようになったといわれます。また、岩樋の中は高瀬舟が運航できるよう様々な工夫がなされています。

【塩冶の低位段丘と塩冶 築山古墳◎】

 塩冶付近には神戸川が運んできた三瓶火山起源の石英安山岩の礫が大量に堆積し、その一部が段丘のような微高地になっています。上塩冶築山古墳はその微高地上に、築かれています。古墳は径40mを超える円墳で、6世紀末頃の築造とみられまする。全長14.6mの切石造りの横穴式石室があり,家形石棺2基が見つかっており、豊富な副葬品が出土しています。 

【浜山砂丘・砂州】

 浜山砂丘は、縄文時代の高海水準に対応する標高5m弱の砂州を覆って形成されたもので、最近数千年の間にできたものです。粒度のそろった比較的粗い砂が観察できますが、バスからの観察にとどめます。

【荒木の八間樋】

 安政6年(1859)に完成した高瀬川の箱樋 新内藤川の上を立体交差する水道橋。堀川にまで通水するようになった。樋の幅は2mほどですが、長さは新内藤川の川幅8間(14.5m)に対応しています。昭和25年にはコンクリート製になりましたが、それ以前は木製の樋でした。

【高瀬川末端と堀川◎】

高瀬川の水は最後には堀川へと流れ落ちています。高瀬川の終点には「川方かわかた」と呼ばれる役所が設けられていました。当時の説明板が設置されています。

【稲佐浜・弁天島◎】 

 出雲神話の国譲りの会議が行われたのが稲佐の浜です。離岸堤などの設置によって潮流が変化し、現在は砂浜が拡大して、弁天島を陸続きにしてしまいました。

【奉納山登頂◎】

稲佐の浜の北にあるのが標高75mの奉納山です。山頂部は奉納山公園(昭和30年完成)となっており、公園の展望台からは大社の町並みはもとより、稲佐の浜から伸びる国引き神話の「西の綱」園の長浜から三瓶山までの雄大な眺めを楽しむことができます。